前略、ドデカ愛の真ん中より

※個人の感想です

軌跡に灯した光をなぞる

 Digital Mini Album 『ALPHA』リリースおめでとうございます!!!社会人になって初めてのリリース、しっかりと噛み締めました!!!!去年と変わらず、人生は最悪!人生は最高!を繰り返しながらなんだかんだでもう今年も終わろうとしていますが、今年もHalf time Oldの新曲達を聴けることに感謝だなあ~。以下は曲の感想です。

 

1.モラトリアムカレソウ

 この曲を聴いて、『人生』について嫌という程考えざるを得なかった。考えたことについては前回のブログに書いたので割愛。

 冒頭の部分がゆったりとしたテンポ感であることによって、「嬉々として持ち帰った答案」「違和感を感じたのはいつからだろう」のまだ地に足が着いていない感じがよく出ているな、と思う。「君を殺した」で音が一気に変化して、これまでの全てが鋭利なナイフになったかのような疎外感。かと思えば、また再び歌声が寄り添ってくれる。人生について考えるということは、これまでの自分を責めることでもあり、受け入れることでもあり、褒めることでもある。絶え間なく移り変わるメロディが、それを教えてくれるような気がする。

 「モラトリアム」は、ぼんやりとぬるま湯に浸かっていることでもあるし、無風の崖っぷちに座り込んでいることでもある。大人になるということの意義は人それぞれだけれど、あの頃の私がこの曲に出会っていたら?と、「if」を思い浮かべざるを得ない曲だ。良くも悪くも、私はもう大人になってしまった。

 

2.透明(にされた)人間 

 タイトルの時点で薄々ヤバいことは察していたけれど本当に予想以上でした。こんな天才的なシンクロギターイントロ、どうやって曲始めるんですか???

 かく言う私も小学生の頃いじめられていた側の人間なんですが、ゾンビのように湧いてくるいじめっ子を定期的に先生に密告し、帰りの会で説教されているいじめっ子を見て心の中でほくそ笑むタイプのいじめられっ子でした。いじめっ子の親に密告したこともあります。「仕返し」の旨味を知ると中々に爽快だったし、わたしもいじめっ子も含めて人間って愚かだな~と思っていました。今考えると、小学生ってやっぱりまだ社会性が出来上がってないからやっぱり多少は軋轢が生じるんだろうな~とは思います。理由があろうと駄目なものは駄目だけどね。何の話???

 曲の中だと「うるせえ!!!!!!!」ぐらいの勢いなのに、歌詞だと「うるせえ」の平仮名4文字なところのギャップが良いな、内に秘めた激情みたいな感じで。中々表立って言いづらかったことをガツンと叫んでくれる、あの日の爽快さを思い出す曲でした。多分聴き方違うよなこの感想……。

 

3.革命の音

 「転がる岩に掴まっている」という歌詞が初っ端から興味深かった。「転石苔生さず」という諺があるが、これには「あちこちを転々としていると成功に繋がらない」「常に活動していれば錆びつくことは無い」みたいな感じで真反対の意味が2つある。どちらの意味か決まってるとかじゃなくて、きっと掴まっている人次第なんだろうな。

 モラトリアムカレソウを聞いた時、「じゃあ夢も目標も特に無い大人はどうすればいいんだろう?」と思ったけれど、その時の気持ちを全部この曲がすくい上げてくれた。「『なんかいい』くらいの感覚を信じ抜くことだよ」で、人生それでいいのか、ありがとう……。の感情になった後で「未来さえ現在から出来ている」をぶち込まれるの本当にヤバくて好きです。

 「人生は長くはないんだし」「僕らはいずれ死ぬものだよ」の後で突然タンチョウと海亀が出てくるの、「鶴は千年亀は万年」っていうこと?自分が死のうとも世界は変わらずにずっと回っていくから、人生で起きるちょっとしたエラーなんて些細どころじゃない塵みたいなことだと思って生きていきたいね。世間一般の「幸せ」の概念なんて別にいいから自分本位でいい感じに幸せになりたいです。今も幸せだけどね。

 

4.stand by me

 海の中にいるみたいなイントロでとても良い。音の使い方が本当に全部大好き……。サビのギターに耳を澄ますと“天才”の概念を浴びれるのでおすすめです。

 彼らのラブソングは結構レアなのでどうしても今までの曲と合わせて考えてしまうなあ。スターチスは「未来」の話だったけど、この曲は「今」を慎重に、じっくりと、味わい尽くすように生きているふたりの歌だなあと思う。かつては厚いアルバムとどデカいクローゼットを用意してまで物を整理していたのに、もうそれすらも捨てていいくらいの愛があるんだなあ。地球が無くなった後のことを考えていたかと思えば1Kの中で慎重に紡がれる愛の話をしたりと、大規模だったり臆病だったりする心情が本当に愛おしいなあ。

 「stand by me」という、まっすぐなように見えて英訳で遠回りしてる言葉が、さらに「例えばだけど」を抱えているところがハーフらしいな、と思う。相手からどんな感情が向けられてるのか自信が持てない、ということは裏返すと自分に自信がないことの現れなのかなあ、と思う。相手を信頼していて大好きだからこそ、自分が愛されるに事足りる存在なのか?と想いを巡らせて、でも想いだけじゃ全部伝わらないもんね、困ったね。(?)

 

5.灯火

こんなに感情ぐちゃぐちゃ(いい意味で)にされることあるんだ!??!!!

 MVに観覧車が出てきたところで普通に泣いちゃった。観覧車が出てきたということはアウトフォーカスと絡めてこの曲を語っていいということですか????ですよね????

 2曲それぞれの「普通が一番の異常だ」「特別な奴らの特権だと思う」という歌詞を見るに、Half time Oldの曲はどこかに「生き方が上手い人への嫉み」があるように思えるんですよ……。でもそんな人ってきっとほんのひと握りで、知らないだけでみんな何かしらの努力をしていて、でもそんな人はきっと努力するのが上手いからね……。生き方が上手く見える人も、分かりやすく下手な人も、あらゆる「苦労」を味わった人に染みるのでこの曲はほぼ全人類に染みます(?)

 アウトフォーカスの観覧車が聖地になったよこともそのひとつだと思うんだけど、この曲は“光”を可視化させてくれる音楽だなあと思います。光を追い求める旅というか、「光」だと思ったものを大切に抱えながら旅路を照らして自分の道を探していくのが“人生”なんだろうか?これから先の人生も自分が光だと思ったものを大事に抱えて生きていきたいし、時々人生を振り返って、かつて“光”だったものたちに背中を押されたりするのもいいかもしれないね。

 

6.トリノフライト

そうきたか~!!!!!

 ツアータイトルが「うまれてこのかた」になったこと、全力で大好きだ……。人生って自力で酸素を吸う前から始まってるんだね……。

 「コウノトリに跨って十月のフライト」でああ!!!!!ってなった。これ、人生における一番の未知と神秘じゃないか??間違いなく自分の人生の一部のはずなのに、データにしか残っていない期間があるって不思議だなあ。人生というひとつの旅の中に、もう既に終わった旅があるんだな、よく考えてみれば……。

 そうだよね、人生って全部未知だよね。これからどうとでもなるよね。胸いっぱいの希望と一緒に生まれてきたんだものね……。人生の始まりであり根底である旅を好きすぎる語彙力で語られると、「うまれてきて良かった」と心の底からしみじみと思った。未知とは無限の希望。

 関係ないんだろうけど、「愛を知る」というワードでふふってなった。愛知県生まれだから……。笑

 

 

 Half time Oldに出会っていなかったら、果たして人生についてここまで考えていただろうか?と思わせられるアルバムでした。人生に正解なんてないから、過去をいい感じに受け入れて良い未来を創っていきたいな!!振り返ればきっと過去の人生は光で彩られているし、今の私にとって光であるものを大事に抱えていたいな。

 ちまちま書いてたらリリースツアーが始まってしまいました。感想はだいたいツアーが始まるより前に書いてるので、ライブの感想はまた改めて整理したいな!!

モラトリアム彼奏

 思い返せば、好きなことばかりさせてもらいながら22年生きてきた。しかしその22年は、自分の意思で選んだはずの道に悩み苦しみ続けてきた22年でもあった。自分の不器用さ、センスの無さ、周りとのレベルの差に悩み苦しみ、そして「緊張するとすぐお腹が痛くなる」という今の今まで続く苦しみもおまけのようについてまわるようになった。

 それでよかったのか?と、学生時代の経験に疑問符を付けたくなったことは凄まじくたくさんある。好きなことに熱中しすぎていたせいで、当時流行っていた曲はほとんど何も知らない。TVもほとんど見なかったので、知らない間に始まって終わった番組も沢山あるだろう。高校3年間の間に、ONEPIECEの展開は何やら凄いことになっていたような記憶が少しある。

 色々なことを犠牲にした結果、大学に進学して残ったのは、ただの世間知らずな18歳だった。

 

 自分が好きだと思うことを常に人生の中心に据え続けてそれに苦しみ続け、今も尚何かに苦しんでいる。ただ、その苦しみが私の人生の醍醐味だと思っている節があるので、別に今の生活を変える気は今のところない。じゃあ「モラトリアムカレソウ」は私の人生のどこに当てはまるだろう?と考えた結果、先程までつらつらと書き連ねていた私の高校時代だ。

 「生き方は自己採点で答えなど無い」ので、当時の自分を肯定できるのは私しかいない。得意だったかどうかは分からないけど、興味のあることを追いかけ続けた日々は、今思えば素晴らしかった。多分。

 あの頃にしか出来なかったことを追いかけて、流行は何も知らないけど、それに負けないくらい沢山のことを見聞きしたあの頃、今よりもずっとずっと苦しかったけれど、何物にも変え難いくらいの宝物。あの頃の私に、今の私の宝物を贈りたい。

 

 好きなことを仕事にできるのは、「強さ」を持っている人なんだとずっと思っている。私にはその「強さ」は無いと、社会人になった今ひしひしと感じる。「モラトリアムカレソウ」に詰まっているものは「“強さ”に気付かせてくれる起爆剤」なんだと思う。気づいていないだけで、私にも案外何かがあるのかもしれない。

 好きなことを仕事にした人がいるおかげでこの世は希望に溢れているし、そうでない人もきっとその一部になっているのだと思いたい。どんな形であれ、「強さ」を持っている人は強くて美しいのだ。

 

Half time Old - モラトリアムカレソウ

 

まっさらな世界に響く夢

dB聴きたくない人、いねえよな~~?!!??!!

 

 理想の大人になれなかったことでお馴染み(?)、『身体と心と音楽について』収録の「dB」。ハーフのライブに来る友達、みんなdB好きだよなあ……。この曲の時は必ず(多分)小鹿さんがレスポールに持ち替えるので、ステージにレスポールが置いてあるだけでワクワクと動悸が止まらなくなる身体になってしまいました。知らん間にパブロフの犬みたいな状態になっちゃったよ。レスポールの犬だよこれじゃあ。身体と心と音楽について、ってそういう事なんですか?

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動悸が止まらなくなる色味をしている

 

 なぜ人はdBを求め、なぜdBは人に求められるのか。この曲が生み出す熱狂の源を、自分なりに考えたいと思った。

 

 

 イントロのギターで、うわぁ~!!!好き~!!!!ってバカデカ感情に襲われました。助けてください。「最低な世界だずっと」に「せやな!!!!」ってなるし、就活に失敗しまくって理想の自分になれなかったドリーマーと化していた時のことを思い出していた。最低な世界だったよ、面白いくらいにボロボロだったよ、ずっと。

身、心、音。 - 前略、ドデカ愛の真ん中より

 何がいいって、まずイントロがめちゃくちゃ良い。〝潔い〟のだ。dBのイントロ(歌詞が始まるまでとする)はちょうど10秒。比較として、同じように「ギター単体のイントロに他の音が合流してくる」構成だなあ、となるアナザーロードのイントロは19秒。なんとも潔い尺だ。サブスクが普及した昨今、音楽のイントロはどんどん短くなる傾向にあるらしい。ワンタップでなんでも聴けてしまうようになった文明の弊害か、はたまた進化か。だが、この曲を語る上ではそんなことはどうでもいい。dBは、この短いながらも濃厚なイントロが、きっと最適解なのだ。

 dB初披露となった身心音リリースツアーの横浜のライブ映像を改めて見てほしい。

Half time Old on X: "ツアー初日サンキュー横浜!! dB (デシベル) #身体と心と音楽について #HalftimeOld https://t.co/zmJWwNJgTv" / X

 

熱狂の概念を音の形に作り替えたようなイントロが、たった10秒で歌詞に化けることによって、このフロアが出来上がるのだ。ちなみに私は毎回首と腕が取れかかっている(曲中は痛みに気付かない)。

 そして、たった10秒で熱量を最大にした瞬間に放たれるワードが「最低な世界だずっと」なのがヤバい。Half time Oldを好きな人間に「最低な世界だ ずっと」なんて言葉が刺さらないわけが無い。みんな心のどこかできっと世界のことを最低で最悪だと思っている(よね?)中で、神様の口からそれを最高のボルテージで肯定されるんだからたまったもんじゃない。いい意味で。でも、そんな最低な世の中になんとなく順応して生きている自分が最低だと思っちゃうの本当に、わかる。なんでこんなにも言語化が巧みなんだろう……神様だ……。

 「酒やタバコに乗っけながら話す人生」が本当に良い。わたしは週に一日は必ず仕事帰りにお酒を飲みながら知らん人に人生の話をするんだけど、楽しいながらも心のどこかで「本当にこんなことしてていいのか……?」と思うことがあって、それを「最低は俺の方だ  分かっちゃいるけれど」で肯定でも否定でもない、ただ「分かってくれる人がいる」という気分にさせてくれるのがいいな~と思う。肯定も否定も別にいらなくて、ただ「そういうこともあるよね」みたいなニュアンスの言葉があるだけでいいのだ。きっと。

 「気合いで自分を保つ 面白いくらいボロボロになった」はライブに行きながら大学4年生の秋まで就活していたボロボロの私にありえないくらい染みた。やっと内定を貰えた直後にアルバムがリリースされたのでこの曲と共に就活をしていた事実は存在しないはずなのに、「dBに救われながら就活をしていた」という無いはずの記憶が蘇ってくるので困る。多分レッドブルを飲みながら三徹して卒論を書いた記憶とごっちゃになっている。懐かしいな~広島ライブの当日に6時間寝坊して開演間に合わなかったな……あの日もdBがセトリ入りしてて嬉しかったなあ……。

 

 この調子で書いてるととんでもなく長くなってしまいそうなので一旦纏めるが、こんな感じで「フロアぶち上げソング」でもあり「人生寄り添いソング」でもあるこの曲、そりゃあみんな聴きたいよなあ。わかる。

 本題はここからである。リリースからずっと考えていることが2つある。

①なぜ、突然「バベルの塔」が登場するのか?

②なぜ、この曲のタイトルは「dB」なのか?

 

以下、個人的見解です。

 

なぜ、突然「バベルの塔」が登場するのか?

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 リリースツアーの時に本人に確認済なのでこの部分は確実にバベルの塔である。「バベルの塔」については下記の通りである。

旧約聖書』「創世記」に記されたれんが造りの高い塔。物語によれば、人類はノアの大洪水ののち、シナル(バビロニア)の地にれんがをもって町と塔を建て、その頂を天にまで届かせようとした。神はこれをみて、それまで一つであった人類の言語を乱し、人間が互いに意志疎通できないようにしたという。

バベルの塔(ばべるのとう)とは? 意味や使い方 - コトバンク

 この曲は一人の人生の話で収まることではないのでは無いか?もしかしてめちゃくちゃスケールの大きすぎる話をしている??なんて考え続けてもなかなか納得できる答えにたどり着けなかったが、8/26のライブ(走光性現象)のdBで、突然脳味噌が爆発するくらいの勢いで“答え”が脳天を貫いていったので、以下に記そうと思う。

 

 バベルの塔を作ろうとしていた人々は、神様によって言語をバラバラにされてしまった。そして塔は立たなくなった。しかし、神様が行ったことは「言語をバラバラにする」のみである。「天まで届く塔を立てる」という共通の目標は残っていた筈である。しかし、結果的にそれだけで「天まで届く塔を立てる」という目標は頓挫してしまった。穿った見方をすれば、「大きな目標という名の綺麗事」では集団は動かず、「意思疎通」が成立してやっと目標達成が可能になる、ということである。「言葉が無くなれば塔も立たず 綺麗事だけじゃ働けんらしい」はそういうことだと思う。「キリがない欲望と全知全能の神様」もバベルの塔関連のワードな気がする。

 しかし、人類には唯一無二であり不変の共通言語がある。

「音楽」だ。

 被害者面して目標から逃げるのは癪だし、なんなら逃げる必要は無い。人類には、ハーフには、我々の人生には、「音楽」というあまりにも眩しくて強い共通言語がある。だから、「大した問題じゃない」のだ。

 「理想の大人になれなかったドリーマー」は、 目標を何かに妨害されて何も出来ないまま時間が経ってしまった、つまりバベルの塔から長い時を経た人類の姿かもしれないし、「空に浮くガレオン船とやらは見つかったかい」はかつて目標を妨害した存在からの煽りなのかもしれない(この辺りは「虹を目指して」と絡めて考えるとまた違う世界が見えてくると思う)。天まで届く塔を立てたのなら、空に浮くガレオン船だって見つかるかもしれないからね。

 色々踏まえると、「かっこよくキメて世紀末超えよ人類」か始まる2番のサビは、「音楽」という共通言語を自覚した人類のことを指しているように取れる。気合いだけで案外何とかなることもあるし、形から入ってみることで世界が変わるかもしれない。夢があるなら今からだって理想の大人になれてしまうのかも。きっとまだまだ進めるよ、音と夢があるのなら。

 

なぜ、この曲のタイトルは「dB」なのか?

 そもそも「dB」とは、音の大きさの単位である。

音量は通常「dB(デシベル)」という単位で示されます。デシベルの「デシ」とは1/10を示すもので(容積を表すデシリットルなどの「デシ」)、基となる単位は「ベル」。

天気の音、音楽の音 〜音の大きさ「デシベル」について〜 | Denon 公式ブログ

 先程、「意思疎通が出来ないと集団は動かない」「人類の共通言語は音楽である」という旨の話をしたが、その2点に共通するのは「聴覚」である。五感の中でいちばん明確に他人の意思を汲み取れるのは、きっと聴覚である。時点で身振り手振りを認識できる視覚だと思うが、言語を認識できる聴覚には及ばないであろう。どっちも大事だけど。

 人類は集団行動を高度に成り立たせることによって進化し、そして意思疎通が出来ないと集団は動かないので、文明を発展させてきたのは「言語」という名の「音」である。いつだって世界は音に溢れ、音で動いているのだ。だから、タイトルが音の単位である「dB」なんだ。

 音楽という「音」を好きである以前に、「言語」という「音」の中で人類は発展してきたという事実がある。進化の根底にあり、かつて人類を助け、乱し、そして今でもすぐ側にある言語。そして、私達を救い、人生を彩ってくれる音楽。この曲の根っこにあるのはそういうことなのかもしれない。このブログを書いている前日のライブ(8/26 走光性現象)のdBを見ていて、突然「言葉だって音だ!?!!!」「音楽って共通言語じゃん!!??」「だからタイトルがdBなのか!??!!!」という気付きが一気に押し寄せてきて、頭が爆発しそうになった。ライブの後で酒を飲みながらなんとか言語化し、その時の記憶とメモを頼りにしつつこのブログを書いている。とりとめがない文章なので分かりづらかったらすみません。

 

 「音楽という共通言語があるから大した問題じゃない」の答えはもう既にライブハウスにある。みんな、dBを愛している。イントロだけで、というかレスポールがステージに置かれただけでボルテージが上がる。どこに住んでいるのかも、本名も、何も知らなくたって、同じ音楽を愛しているというだけで、音楽という共通言語で意思疎通の前提ができている。

 

 私は、dBが大好きだ。色々難しく考えなくともdBが大好きだ。大好きだから、なぜ大好きなのかを言語化したくて、ずっと考え続けていた。その答えを突然くれたのは、音楽だった。百分は一見にしかず、に近いものがあった。今までつらつらと書いた思考の結論が合っていようが間違っていようが、そもそも明確な答えが存在するのかどうか、それは大した問題ではない。ただ、今後もまたライブハウスでdBに巡り会えたらなあ、と思う。そして、音楽という共通言語で、同じ空間にいる人達と同じ熱量を分かち合いたいなあ、と思う。

 

 またいつか、ライブハウスで。理想の大人には、今からでもなってみようかなあ。

2023.08.02

 今年もこの日がやってきた。1年というのは本当にあっという間で、白目を剥きながら就活していた去年の8月2日からもう1年が経ち、そして就活を乗り越えて無事社会人となってからもう4ヶ月が経過したことになる。

 Half time Oldは、私の人生の光だ。今まで色々な光を頼りにして生きてきたけれど、一番夢中になって追いかけている光は間違いなくHalf time Oldである。ライブ会場から全力で走って終電に飛び乗るのも、遠征先から始発で帰ってきてそのまま出勤するのも、Half time Oldが対象でないと起こらなかったことだ。

 

 人生で辛い思いをすればするほど、ライブに行くのが楽しみになる。ハーフの音楽は、いつだってありとあらゆる苦悩に寄り添ってくれるからだ。Half time Oldに出会えたおかげで、苦しみがただ辛いだけのものではなくなってきた。空腹が最高のスパイスであるように、どんな悩みもいつかは人生の糧になる。苦しみも悲しみも生きている限りはずっと心に存在し続けるけど、それをマイナスなことだけに留まらなくさせるような音楽に出会えて、本当に良かった。まだ上手く言えないけれど。

 やっぱり、Half time Oldのすべてが好きだ。もっとたくさんの人に知って欲しい。Half time Oldの言葉に、音楽に救われる人はもっとたくさんいる筈だ。ただ、届いて欲しいなあと思う。

 あまり人に言えないような悩みも、ライブハウスで出会う人には割と簡単に打ち明けてしまうことが多々ある。やっぱり、似た者同士なんだなあ、と思う。ハーフを好きな人が集って、そしてハーフの音楽を1番近く感じられるあの空間が大好きだ。願わくば、できるだけ長くあの空間が存在し続けて欲しいなあと思う。この1年で、時代はかなり変わった。来年の8月2日には、私も世の中もまた変化しているんだろうな。

 

 来年の今頃、私は何を想い、何を聴いて生きているのだろうか。自分を大切にして、寄りかかれるものを持って幸せに生きていて欲しいなあ、と思う。そして、Half time Oldを構成する全ての人も、ライブハウスで出会ってきた人たちもみんな幸せだったらいいなあ、と思う。

 

 最後に言いたいことはやっぱり去年と同じだ。これからもずっと、Half time Oldを好きでいたいな。いつもありがとう。

「アンチヒーロー」のMVについて真剣に考えてみた

 「発見と疑問」収録曲、アンチヒーロー。ハーフを初めて知った時からけっこう好きで聞いている曲であり、初めて行ったライブのアンコール曲でもあったのでけっこう思い出深い大好きな曲だ。でも、未だに頭の中で処理しきれないことがある。

そう。MVだ。

 初めてアンチヒーローのMVを見た時のことは未だに鮮明に覚えている。曲をけっこう聴き込んでからMVを見たので、曲調や歌詞からは全く想像もつかなかった視覚情報にひたすら混乱して、そして何も分からないまま映像が終わった。それからずっと「分からない」ままだったが、「分からない」という状態にあることに今更モヤモヤしてきたので、自分なりの答えを導き出すべく「アンチヒーローのMV」についてひたすら考えてみた。以下に書かれるのは、その思考と考察の成果である。

 

1.鎖は何なのか?

 アンチヒーローのMVにおいて、序盤から強烈なアッパーを噛ましてくるのが「鎖」である。歩いている大晴さんが持ち上げた手首についた鎖。先端は前を歩く女性(梅本さん)が握っていて、うきうきで鎖を引く女性と、よろけながらもついていく大晴さん。かなりパンチのある光景だ。

 この「鎖」について考えるにあたって、どうしても外せない要素である歌詞がある。これまた序盤から強烈なアッパーをかましてくる、

「言うなれば遺伝子レベルで繋がってた奇跡と思っていたいんだよな」

という歌詞だ。「言うなれば」「思っていたい」といった言い回しから、この歌詞は「遺伝子レベルで繋がってた」という認識に縋っている様を表現しているのだろうか。「遺伝子レベルの繋がり」が物理的なものなのか比喩なのかは分かりかねる。しかし、「手を繋ぐと、お互いの手と手の粒子が混ざって二人の手の粒子の境目が無くなる」という話を聞いたことがある。このブログを書くにあたって改めて調べたものの、はっきりとしたことは分からなかった。だが、「遺伝子レベルの繋がり」と呼べるような物理的な繋がりは、思ったより簡単に得られるものであることは確かなのかもしれない。

 MVに話を戻す。件の鎖は、「遺伝子レベルで繋がってた奇跡」を言い終わるあたりで画面に登場してくる。「遺伝子」という言葉にDNAの二重螺旋が含まれるのなら、この鎖は「遺伝子レベルで繋がってた」という歌詞の比喩なのではないだろうか。ビジュアル的に「奇跡」と呼ぶには暴力的な気がするが、「別れの日だって怖くならない」と歌詞が続いているように、「別れ」を怖がったりするくらいにはその暴力的な繋がりに縋るほどの何かがあったのだろう。また、2番の「暮らしなら順風満帆」のところでちょうど鎖が画面内に入ってくるので、一応そこまで険悪では無いと思いたい。もしくは歌詞とビジュアルが相反していることに対する皮肉なのかもしれない。

 鎖そのものについて考えたところで、もう少し細部を掘り下げてみる。例えば犬を散歩する時、鎖(リード)は首に繋ぐものである。しかし、MVでは鎖は「手首」に巻かれている。これについて、少し逸脱しているかもしれないがひとつ言及したい事柄がある。「キスの部位には意味がある」という言説だ。手首へのキスは「欲望」、そして鎖の反対側を持っている手のひらへのキスは「懇願」を意味するらしい。鎖が着いている側、持っている側の部位が「相手から向けられている感情」を意味すると考えると、見えてくるストーリーもまた違ったものになってくるのではないか。

 また、私の見間違いでなければ、鎖が着いているのは「左手首」である。終盤の食事シーンを見るに、MV内の設定上左利きということでは無さそうなので、利き手では無い方の手を繋がれているということになる。また、鎖を外そうとしているシーンが2番にあるので「鎖を完全に受け入れている訳では無い」「鎖は自力で容易に外せるものでは無い」という2点が成立する。しかし、女性側は鎖を持っているだけなので、振り払って逃げることは不可能では無いはずである。そして、鎖を持っているだけ、ということは、女性側はそれを簡単に手放すことができる、ということである。「鎖」という物理的なものを通して見ると不思議な光景だが、この「鎖」を「関係」等に置き換えて、キスの意味を絡めて整理してみるとどうだろうか。

・欲望(束縛)を完全に受け入れている訳では無いが、振り払って逃げる(関係を断つ)ことには踏み切れない

・懇願じみた愛情を簡単に手放せる立場にあるのに、絶対に手放さない

このような、相思相愛であるのに歪な関係性が浮かび上がるのである。この2人の関係は「遺伝子レベルで繋がっている」筈なのに、何かがすれ違っている。しかし、すれ違った先でまた出会って絡まって、物理的な形で表すならMVの鎖のシーンのようになってしまっているのではないだろうか。このMVにおいて鎖は、曲のコンセプトである「相手との壊れそうな関係さえもポジティブな感情で弾け飛ばしたパーティロックチューン」の、「相手との壊れそうな関係」を視覚情報として成立させるキーとなっているのである。事実、どちらかの些細な行動で鎖の片側は簡単に地面に落ちてしまう。それでも、この二人の間にあるのは確かに「遺伝子レベルの繋がり」と呼べるようなものなのであろう。

 

2.鎖の行先

 2人の繋がりを表すような鎖だが、MVの中ではずっと2人を繋いでいる訳では無い。「大晴さんが鎖で壁に繋がれているシーン」「手首に鎖が着いたままの大晴さんが1人で外にいるところに雨が降ってくるシーン」がそれぞれある。

 ここまでの考察を踏まえると、鎖が壁に繋がっているシーンは「愛情の行き先が一時的に無くなっても関係を断つことに踏み切れない」という心情の現れだと考えることが出来そうだ。「怒ってみたり笑ってみたりして 続いてくれよ」という歌詞が「祈り」ではなくキスの意味通りの「懇願」だとしたら、腕に絡みついた束縛に縋るような感情なのかもしれない。

 「手首に鎖が着いたままの大晴さんが1人で外にいるところに雨が降ってくるシーン」では、外で立ち尽くす大晴さんの画面が切り替わって、手招きする相手の顔が入ってくる。その後、いくつかシーンを挟んだ後で大晴さんはどこかに駆け出すものの、これが「単純に雨を避けるため」なのか「自由の身であるにも関わらず自ら相手のところに戻っていく」なのかは分からないが、後者だと考えるとストーリー的になかなか面白くなると思う。

 金属がやがて錆びて朽ち果てていくように、相手にずっと同じ感情を向けたまま生きていくことはできない。これについて、もうひとつ強調されているシーンと共に次の章で論述する。

 

3.「食事」のシーン

 MV内でもう一つ印象的なのが「食事」である。MVの最初の画面で映るのは、楽器でも演者でも草でもなく、「1人分の食卓」である。その後、特筆すべきシーンは曲の終盤、ギターソロのところで登場する。「大晴さんがパンもしくは水に手を伸ばし、それを制止されつつ怒られる」シーンである。冗談だよ~みたいな感じで水のグラスが返却されるシーンが最後の方に挟まれているが、その時の大晴さんは「無表情」である。怒るでも笑うでもなく、無表情。そして流れている歌詞は「怒ってみたり笑ってみたりして続いてくれよ」である。これこそ「相手との壊れそうな関係さえもポジティブな感情で弾け飛ばしたパーティロックチューン」というキャッチコピーの象徴たるシーンだと思う。食事を制止するという悪戯は、食べるのが好きな人間からしたら「生殺与奪の権を突然他者に奪い取られる」のと同義だ。そこまで感じなくとも、突然食事を制止されたら割と誰でも怒ったり動揺したりすると思う。

 相手がちょっとした悪戯でやって笑っていることもこちら側からしたら怒るでも笑うでもなく動揺で何も出来ないことはあるし、なんの反応も無いことは相手からしたらつまらないかもしれないし。そんな価値観の違いが積み重なって、繋がりはやがて少しづつ朽ち果てていく。それでも、君といたい。怒ったり笑ったり喧嘩したり束縛し合ったり、離れたら歩み寄って、悪いことをしたら謝って、そんなことを繰り返してまた繋がり方を更新して、一緒に生きていきたい。最後の最後で何かを思い出したように雨の中を走り出した瞬間、相手から差し出された食事を前のめりで食べた瞬間、まとわりついていた錆を振り払って新しい2人になれたのなら嬉しいなあと思う。

 

 

4.まとめ

 「アンチヒーロー」は「反主人公」と訳され、「ダークヒーロー」と言い換えられる。人生の主人公は自分しかいない、が無条件で成り立つなら、「僕らにとって互いがアンチヒーロー」は反主人公である「アンチヒーロー」になれるのは君しかいない、といったところだろうか。相容れなかったり、口うるさく感じたり、関係を続けていくことが嫌になったりすることもあるだろう。でも、「反主人公」が人生のストーリーに存在するからこそ、より楽しい人生を送っていけるのならどうにかして歩み寄る価値はある。「僕ら一人一人がドラマだ」と歌う前から反主人公と遺伝子レベルで繋がっていた奇跡を歌って、それを「アンチヒーロー」と名付けたことは興味深い。

 これからも私はアンチヒーローを聴くし、突然MVがツボに嵌って何度も見返すだろうし、セトリ入りしたら満面の笑みで手拍子をする。多分。そして、A-Zの流れから察するに「アンチヒーロー」という曲の登場人物達は結果的に離れ離れになってしまうんだろうけど、もし曲の世界とMVの世界がパラレルワールド的なものだったら、MVの世界のふたりはどうか幸せであって欲しい。

 

ありふれた夜もきっと終わる

踊るように歌おうぜ

ロック!ソング!ダンス!

 

おわり。

 

参照

Half time Old、1stシングル「A-Z」を全曲解説! | OKMusic

「キスってこんな意味があったんだ!」 魚を使った解説イラストに笑う – grape [グレイプ]

アンチ・ヒーローとは? 意味や使い方 - コトバンク

 

Half time Old「アンチヒーロー」Music Video - YouTube

身体と心と音楽について

2022.12.16(金)名古屋ELL
『身体と心と音楽について』リリースツアーf:id:miya__t__O:20221218012717j:image

 

 始まりがあれば終わりがある。終わらないでくれ、といくら願っても大体のことは叶わずに終焉を迎えてしまう。いつかこの世界だって、終わらないでくれ、と願いながら終わりを迎えるのかもしれない。

 あの日、そんな「終わらないでくれ」といういつも通りの願いが初めて叶った。終わっていくのを見届ける時の儚さと美しさを感じるのも良いけれど、物語の続きが生み出されることによる希望はそれよりも遥かに大きいのである。2022年12月16日のHalf time Oldは、この世界にある当たり前をいとも簡単に全て飛び越えて、ステージの上で爆発するように輝いていた。その輝きこそが私にとって何にも替え難い宝物で、彼らはこの世の何よりも頼もしい存在で、この世で1番大好きな存在。そんな言葉がするすると心の中で生み出されて浮かんでいたくらいには、ただただ愛と希望と音楽だけで身体も心もいっぱいだった。

 私がしていることは「救済の消費」なのでは?と悩んでいた時があった。このツアー中、つまりほんの少し前のことだ。好きが止まらなさすぎた故の悩みに苛まれていた私を救ったのは、やっぱりHalf time Oldだった。8月某日の彼ら曰く、「生きてりゃなんでもいいよ」だそうで。生きていくことに大層な理由なんていらなくて、働いて、税金を納めて、疲れたら休んで、そうしてライブハウスだったり、音楽ホールだったり、あるいはもっと大きな会場だったり、自分の好きなものがある場所に「救い」を求めたりして、これからもまたそうやって生きていけばいい。来年から色々生活が変わるけれど、どうにか社会の歯車を全うして、胸を張って好きなことをしたい。(でも無理はせずほどほどに……)

 

 今までの自分みたいに我武者羅にはなれないかもしれない。もっと大人になっていくにつれて、感情が今ほど上下しなくなるかもしれない。好きな物が変わるかもしれない。それでも、身体も心も音楽に救われてばかりだったこの1年のことは、絶対に忘れたくない。

 

 本当にありがとう。私の大好きなバンド、Half time Old。

寒空と灼熱と朝陽について

2022.11.22(火)

高松TOONICE 『身体と心と音楽について』リリースツアー

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(撮った写真のほとんどに人が写りこんでてチェキ込の写真しか上げれるのが無かった……)

 

 寒くなってくると、ふとしたことで涙が出てしまう。この日だってそうだった。夜行バスの中で、そっとカーテンの向こう側の街を見た時に訳もなく涙が出てきたり、バスを降りたら朝陽が綺麗で涙が出てきたり。寒さは色々な不安をむき出しにさせるし、心を敏感にする。乗りこんだ交通機関を五体満足で降りられる保証も、ライブが無事に開催される保証も無い。あてもなく祈り、訳もなく泣き、そして音楽に縋る。ずっとその繰り返しで生きているような気がする。

 それでもライブハウスには“救い”があるのだ。それまでの生活でどんな出来事があろうと、嗚咽するくらいに悲しかろうと、きっと何かを与えてくれる。根拠もなくそう信じている。サビついた脳味噌の部品に油をさして、敏感になった心にはニスを塗って、縋りついた腕を受け止めてくれる。初めてHalf time Oldの音楽を浴びたあの日、あの時からずっとそうだ。苦しみもがいては、大好きな言葉と音に救われている。生きることで発生する苦しみがあるからこそ、私はHalf time Oldが好きだ。

 

 香川のライブハウスは暑かった。ステージの灼熱が物理的にこちらにやってくる。音楽の熱に焼かれないようにいつも必死だけれど、あの日はそのまま焼かれて融けて、自分では無い何かになってしまいたかった。行く宛ても帰る宛てもない何かに成り果てて、そのまま消えてしまいたいような気さえしていた。でも、外に出たら当たり前のように寒くて、セットリストにサインを書いてくれている彼らの姿を、私の言葉を聞いて笑顔になる彼らの姿を見たら、まだ私のままで生きていきたいなあって思えた。

 寒さは人を弱くする。でも、それがあるから“救い”が輝くのだ。私がしていることは「“救済”の消費」なのかもしれない。でも私は、私のままで生きていく手段をそれしか知らない。私のままで生きていっていいのかどうかも分からない。その答えをツアーファイナルに求めてしまっている節もあるが、それが正解かどうかはもう少し生きてみないと分からないんだろうな。

 

 このツアーが終わった時、私は何になるんだろう。